平野区「畠山長政の墓」

皆様、こんにちは。

小川鍼灸整骨院のスタッフブログです。

今日は一日雨の予報ですね。しかも風が強くてかなり荒れた天気になるみたいです。激しい雨風に気を付けたいですね。

今日の平野区の花粉は少ない予報です。花粉症の私も今日の症状は少し軽く感じます。けれど今日もマスクをしっかりして少しでも被害を少なくしたいと思います。

 

回は平野区の名称の一つ、加美正覚寺にある「畠山政長の墓」について調べてみました。

 

畠山氏は室町幕府3管領の一として、代々尾張守に任ぜられ、河内・紀伊・越中の守護をも兼ねていました。管領畠山持国のとき、その家督相続をめぐり、持国の養子となっていた甥の政長と持国の実子義就との間に争いが起り、これが応仁の乱の一因となったといわれています。
応仁の乱では、政長は細川勝元(東軍)方となり、乱後も政長と義就の確執は長年にわたり、近畿各地で争っています。
1482年(文明14年)政長は第10代将軍足利義稙と共に正覚寺に本陣をおき、南河内の誉田城の義就と対陣しました。1490年(延徳2年)義就が没すると子の基家(のち義豊)と抗争を続け、河内の平定にのり出しました。

しかし、1493年(明応2年)基家の逆襲(世にいう「正覚寺の合戦」)に遭い、基家に加担した細川政元にあえなく敗北、この地で自刃しました。この兵火のため、壮大を誇った正覚寺の伽藍も焼失しました。

応仁の乱:室町幕府8代将軍足利義政のときに起きた内戦で、争いは1476年(応仁元年)から1477年(文明9年)の約11年間に及びました。細川勝元・山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、これをきっかけに戦国時代に突入しました。

畠山政長の墓は住宅地の一角にあり、ちょっとわかりづらい場所にありますが、畠山政長が本陣を置いた正覚廃寺跡は、政長の墓があるすぐ近くにあります。
現在は、「東の坊」という寺院になっており、その山門の傍に『正覚廃寺の由来碑』が建てられています。
その由来書によると、「正覚寺は成等山と号し、825年(天長2年))弘法大師の開創で境内4町4方にわたり観音堂、金堂、講堂、六時堂のほか、山門廻廊など壮大で美しく、東之坊ほか五坊を有する巨刹であります。大師作11面観音を本尊として(現在当坊の本尊となっている)幅広い層の人々の帰依も多く、楠木正成もしばしば参詣したといわれますが、1493年(明応2年)の正覚寺合戦で伽藍は灰燼に帰し、以来廃寺となった、とあります。この日は1993年(平成5年)に合戦の500年を記念して建てられました。

所在地:大阪市平野区加美正覚寺2丁目-6
最寄駅:JR大和路線「平野」下車、駅北側の道を東へ約800m、
「正覚寺1丁目」バス停の手前の道を北へ約300m

 

 

 

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